あれこれと

北海道に関するホームページを作ったけど、いまいち訪問者が増えないので、ブログを立ち上げて、こちらを経由してホームページを訪問してくれる人が増えるといいなぁと。なので、こちらではテーマもなく、北海道とも無関係なことも書いていきます。こちらのブログを見た方は、リンク先のホームページ「いつでも北海道に行きたい!」も見てみて下さいね!

村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の感想を書いてみました

村上春樹」あるいは「多崎つくる」と検索して自分のブログを訪問してくれた人が多いのにビックリしました。それだけ村上春樹さんは人気があるということなんですね。すでに100万部を突破したとのことですから、もはや社会現象ですね。

4/14のブログでは、あえて内容について触れなかったのですが、自分以外の人がどんな感想を持っているか気になって訪問してくださった方もいるでしょうから、私なりの感想を書いてみようと思った次第です。ただ、本はすでにあげてしまったので、正確じゃないことも書いているかもしれませんが、その点はご了承下さい。また、ここからは内容について触れますので、これから本を読もうと思っている方は、この先は読まないことをおすすめします。

 

さて、物語は、主人公の多崎つくるがそれまで完璧に調和のとれた5人グループだと思っていた高校時代の友人4人から理由も告げられず突然一方的に付き合いを拒まれたことで廃人のようになってしまうところから始まります。なぜ自分がいきなりつまはじきにされたかいくら考えても思い当たる節はありません。ただ一つ以前から疎外感を感じていたのは、他の4人の名前には色がついていたこと(例えば青木さんであれば「青」、白井さんであれば「白」のように)、そして、その色に相応しい素晴らしい能力や個性を持っていたことです。一方、つくるには、名前に色も無ければ特筆すべき個性もなく、そんな自分から仲間が去って行ったことを必然と思うようになります。その後、大学で知り合った唯一と言ってよい友達も名前に色を持ち、やはり素晴らしい能力と個性を持ち、そしてやはり何の前触れもなく自分から去って行きました。そのときには、自分からみんなが去って行くことに大きなショックを受けることもなく当然と受け止められるようになっていました。その後の人生は自分に個性がないために、たとえ友達や彼女が出来ても、いつかは自分に魅力的な個性が無いことがわかり、去って行ってしまうだろうということを恐れて、またそうなることは必然だと思い人と深く付き合うことができなくなります。そして36歳になって、沙羅という女性に出会います。彼女はつくるに人として何かが欠けていることを見抜き、その原因が高校時代の仲間4人から突然拒まれた理由を明らかにしていないことにあり、その点が治らない限り付き合うことは出来ない、またその理由を探求するために協力することを申し出ます。そこから、4人に拒まれた理由を探求する、つくるの巡礼が始まります。

なぜ旅ではなく巡礼という言葉を使ったかを考えると、その4人の存在がつくるにとってどういう存在であったかがわかるような気がしますね。それは彼にとって完璧な調和を持つ存在であり、またそこに彼が立ち入ることは許されない聖域だったんでしょう。しかし、その巡礼で久しぶりに彼らに会ってみて、その完璧と思っていた調和は、つくるが切り捨てられた頃には、既にほころびはじめていたということを知ります。また、色彩を持っていた彼らは、それぞれに悩みを抱えたり、挫折したりする中で色が変わってしまっていたり、色彩を失っていることを知り、決して聖なる存在ではなかったということに気がつきます。そうして初めて自分が取るに足らない存在ではないということに気がついたのだと思います。

物語の最後は、つくるが沙羅にはっきりとした恋心を抱き、彼女無しの人生は耐えられないという気持ちになるところで終わります。結局、沙羅との関係がどのようになったかはわかりませんが、そこは重要ではなく、4人の聖者の呪縛から解放されたことで、自分がどうしたいという希望を持つ人生を新たにスタートできたということが重要なのだと思います。

ということで、この物語が示唆していることは何なのかと考えてみると、人生というのは持って生まれた才能や環境などで決まるものではないんだよ、誰も順風満帆で悩みのない人生を送っているわけじゃないんだよ、自分の人生は自分で切り開きなさい ということになるのかなぁと思いますが、そう言ってしまうと、とても陳腐になってしまいますね。すみません・・・。

この小説から感じることは人それぞれでしょうけど、私はこのように感じました。長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。