あれこれと

北海道に関するホームページを作ったけど、いまいち訪問者が増えないので、ブログを立ち上げて、こちらを経由してホームページを訪問してくれる人が増えるといいなぁと。なので、こちらではテーマもなく、北海道とも無関係なことも書いていきます。こちらのブログを見た方は、リンク先のホームページ「いつでも北海道に行きたい!」も見てみて下さいね!

盛忍さんの「漱石への測鉛」を読みました(その2)

夏目漱石の「それから」「門」「行人」についての評論です。以前、「それから」と「門」についての評論までは読みましたが(こちら)、行人は自分自身まだ読んでいなかったので、それを読んでから、こちらの本の続きを読もうと思っているうちに1年以上経ってしまいました・・・。

盛さんについては、以前にも書きましたが、高校時代の国語の先生です。この本のあとがきを読むと、ちょうど私が授業を受けていたときに、行人についての評論を書かれていたようです。当時、それを書くことの苦しさをよく語っておられたので、どんなことが書いてあるのかとても興味深かったところです。

行人は、ある夫が、その妻の気持ちが自分にではなく弟に向いているのではないかという思いに苦しみ、弟に対し、その真意を探るために二人だけで泊まりに行って欲しいと頼む場面があります。弟は断りますが、図らずもそういうシチュエーションになってしまいます。が、結局、特に何事も無かったというのが、この小説の中での大きな盛り上がりの場面なのですが。私なんかは、「なぁんだ。結局、妻も弟も、ちょっと親しいだけで、特にどうも思ってなかったんじゃん」と軽く読んでいました。が、盛先生は、その場面(だけではありませんが)の一語一語から、その言葉の裏に隠されている意味はこうだったのだということを論じ、実は、この二人は肉体的には結ばれてはいないが、「心的なる性的交感・交情」が交わされているということを主張されています。この「心的なる性的交感・交情」という言葉は、あまりに過激だとは思いますが、確かに、そう言われてみると、先生のおっしゃることに肯ける部分もあります。特に、弟が兄に対して誠意の感じられない受け応えをしたことに対して取り返しのつかないことをしてしまったと後になってから気付いたという述懐があり、私はそこも軽く読み飛ばしていたのですが、先生の解釈に基づいて読むと、実は、この行人という小説の中では述べられていない結末が、自然と導き出されるのではないかという気がしてきました。「先生は、そのあたりをどう解釈しているんだろうか?」と思って、ずっと読み進めて行くと、なんと、この評論は行人の前半部分だけで終わっていて、後半はまた別途ということになっていたのでした・・・。

ということで、中途半端な状態で読み始めたこの評論は、どういうわけか中途半端なところで読み終えることとなってしまい、なんとも消化不良気味なのでした。でも、まぁ、先生が我々悪童を相手に舞姫を教えていた同時期に書かれた評論だと思うと、どこか親しみを感じる一冊なのでした。

 

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盛